ぼくの心のサナトリウム

仲間がいた頃のことをぼくは時々思い出します。遠い夏の日のことを。
今のぼくは、孤独ではありません。家族とも仲が良いし、友達も幾らかいます。最近、また、友達が増えたんです。それは高校の頃の同級生です。
ぼくが或るきっかけで連絡を寄越したことから、度々会うようになりました。
高校の頃のぼくは、正直、何かにとらわれていました。何かと、戦っているみたいでした。上手に喋れませんでした。クラスの中心的な奴らも、話しかけてくることもありましたが、そんなとき、照れながら、二言、三言、返すだけで、今にしてみれば、なんて、恥ずかしい振る舞いをしていたことだろうと思います。
そんなぼくだけど、どうしてか、時を経ると、何も恐ろしいと思わなくなりました。高校時代は終ったから、もう、その土台の上に立っていないという、安心があるのでしょうか。なんでも、他人事みたいに、少し上手に付き合うことが出来るようになりました。
それでもぼくは、そんな彼らと、楽しげな輪の中に身を置きながら、ふと、かつてのことを思い出したりするのです。それは、二度と戻れない思い出達ですから、考えるだけ、憂鬱になるほかないのですが、それでも、考えてしまいます。それ以上に、思い出は、甘いのです。

ぼくはいつも近所の友達や、少し離れた家の友達もそうですが、時には、クラスメイトも混じったりして、いつだってひとに囲まれていました。団地の中でも、ぼくらのグループは、ひとつ台風の目のようでありました。それをぼくは、別段誇らしいとも思わず、当たり前の日常のように過していたのですから、今では、眩しくて仕方がありません。
ぼくには、特に仲の良い、幼馴染み、所謂、親友というやつでしょうか、ふたりおりました。ひとりは、年下でしたが、身体が大きく、面白くて、年の差など微塵も気にかけずに毎日毎日遊んでいました。飽きることはありませんでした。ぼくらは遊びの天才だったのです。それぞれが、少しずつ違った世界を持ち寄り、新鮮さは尽きることがありませんでした。時間が幾らあっても足りないような気がしていました。
そんなぼくらも、ぼくと、その内のひとりとが、中学に上がった頃から、縁遠くなり始めました。小学生という長い時代が、まさか終るとは思っていなかったぼくらは、中学という、社会の真似事のような、無理に殺伐を演じているような、そんな争いの中で、生きて行かなくてはならないと感じるようになりました。遊んでいるだけでは、どうにもならぬ、勉強や、恋愛や、風紀にとらわれた混沌の中で、戦い生き延びていかなければならないと。年下の彼とは、会う回数が減り、やがては、ぷつりと糸の切れたように、ぼくらは終りました。彼の声は、すっかり大人になっていることでしょう。
もうひとりの親友とも、彼が就職に際して、地元を離れるときに、ひとつ長い別れを告げなくてはならなくなりました。ぼくは、彼という大きな存在が、毎日一緒に過した彼が、いなくなる生活というものが、想像つきませんでした。小さい頃から、ずっと一緒にいて、どんなに楽しいときも、喧嘩した時も、夏休みも、冬休みも、雨の日も、嵐の日も、彼との思い出は圧倒的でした。ぼくは、その先の空虚を考えることは、無意味に自分を痛めつけることだと思って、やめました。絶望はやがて、ぼくのいちばんきらいな社会という汚い渦にのまれて、善と悪との境もわからないほどに混ざり合って溶け合って、何も云わぬ一輪の花のように、ぼくの心の淵で、つめたい風に揺れています。

Posted by Mist