この頃ギャルが好きになった

 私のように学生時代暗い部屋で過ごしてきた人間にとって、陽の当たる場所にいる人間というものは、それだけで眩しくて見ていられないものである。傍に彼らがいるだけで、その会話の内容や声色にさえ眼をつぶってしまいたくなるし、まして眼を見て話すことなど、なんだか得体の知れない罪悪感のようなものに襲われてとても叶うものじゃない。そうした明るさの中で生きている人の数と、私のように影の中をえらんで歩いて来たような人の数は、どちらが多いのか知らないけれど、いずれにしても私にしてみれば大多数の人間が少なくとも私ほど暗澹としている訳ではないように見える。
 彼ら明るい人間の中にも、幾つも種類はある訳で、それは階層というよりも単なるカテゴライズであるような気がしている。かつて学生服に身を包まれていた時分の私は、「オタク」と呼ぶには些か電子的な潮流に乗り遅れてはいたが、女性の趣味については典型的なそれであって、黒髪ロング、という存在を神のように崇めたてながら無為な憧憬に呪われて冴えない日々を送っていた。教室の中で声の大きいのはやはり化粧など憶えるのが早いませた女生徒ばかり。もちろん私は彼女らに嫌悪感を抱いていた。思えばそれは恐怖だったのかもしれない。そうして私は流行には疎そうな女生徒の中の数人に、黒髪ロング、の特徴に限りなく近いものを探し当て、どうにか理想に当てはめながら淡い初恋をしたような気になって、虚構の青春というプールの中を泳ぎながら季節を過ごした。
 あの頃クラスの中で声の大きかった彼女らの幾人かは、そのまま進路をはぐれずにその王道である「ギャル」のようなものになっていることをフェイスブックなどで知り、そこにぞっとした気持ちを覚えるというよりは、尊敬に似た想いを私は抱いている。それは人の始まりがみな地味であるということを思えば、私自身の身の上から鑑みて、彼女らの派手な身なりは努力の結晶であるとも言えるからだ。人はみな地味なところから始まっている。少女の頃は誰もが黒髪ロングなのだ。そこから脱するということは、何も気の迷いや反抗心ばかりではない。むしろ脱さないということ、選ばずに脱さなかったことの方が怠惰の象徴であるのではないかと思えて来た。似合わぬ化粧や露出の烈しい服装を見て、ただあの頃の私は面食らっていただけなのだ。それがお洒落を獲得しようという心構えから来るものであったのならば、素敵に見られることへの研究の始まりだったのなら……私はひどい思い違いをしていたのかもしれない。
 つまりギャルとはそうした努力の行き着いた先、ひとつの完成系なのである。化粧の濃淡については各々差異があって、濃ければこいほど良いとか、何もしないのが最良だとか、そんな議論に果てはない。ただ一般的には、程よい具合が一番多くの人に好感を持たれる、というより、ほとんど女性が程よい具合、つまり、身だしなみとしての化粧を施しているから、男はそれを意識せずに当たり前だと接しているのである。ギャル、と呼ばれることは少なくとも、レディ、あるいは若いオネーチャンと呼ばれるような女性は、身だしなみとしての化粧から、一歩踏み出したところにいる人が多いと思う。若い女性にとってはむしろ、そうした装飾的な意味合いを持つ化粧をすることは当たり前の認識であるように思う。それが行き過ぎるとギャルと呼ばれる境を飛び越してしまうのだろうと思うし、行かなすぎると逆に冴えない印象を与えてしまう。だけれど私はどっちが好みとかどっちが興奮するとかそうした性的嗜好を除いても、まったくそうしたことに興味すら向けない女性と、所謂ギャルという女性とを比べたとき、人間性としても後者の方が判り合えるのではないかと思ってしまうのだ。
 今朝、スーパーへ買い物に行った帰りに、駐車場で八人乗りの大きな車の運転席に金髪のオネーチャンがいるのを見かけた。彼女はマニキュアだか付け爪だか知らないが、白くてきらきらした貝殻のような爪をしていた。それを見て私はぞっとするでもなく、ただ美しいと思った。過装飾を美しいと思うかどうかは人それぞれだろうが、少なくとも私は美しいと思った。男によく思われるためにやってるのではない、と彼女らは言うかもしれない。それだっていいのだ。時間を割いて、そのための努力をしているのには間違いない。そうした努力の結果を、まったく異文化だとして罪人見るような顔つきで切り捨ててしまうのは、あまりにひどい話なのではないか。私はそうした努力の内を、ひとりの部屋で爪の先を手入れするすっぴんの彼女の姿が眼に浮かんで、なぜだか世間的にはもっとも遠い場所にいるはずの人に、あたたかい想いを感じてしまったのだ。
 そりゃあ、人によって何に時間を遣うかは違うもの。もっと高尚なことに時間を遣っている人だっているだろう。だけど、何もしていないのを盾にして、なぜだか自分の身の上をひどい差別を受けたように悲観して、煌めいている人のことを僻むのは、それこそ不条理な話ではないか。何も私は爪の色だけで人を愛そうというのではないのだ。ただそうした細やかな意識の行き届きに気がついたとき、その人のことをちょっと好きになってしまうだけなのだ。愛されるための努力をさえ放棄してしまっている人は、愛されなくたって仕方ないと私は思う。その方向が正しくっても間違ってても、もがいている人というのは、いつしかそのめまぐるしさに磨かれて、それなりの輝きを持つものだと信じているから。