集団心理は渋柿のように口惜しい

横断歩道を渡ろうか、渡るまいかと、戸惑いがちの老婆がひとり。私はそれに気付いて車を停めた。ごく当然である。家族にそれを話すと、称賛されるだろうかと心躍らせていた私の思惑とは裏腹に、家族は怪訝な顔をした。
「危ないねえ。」
「お前みたいなやつが、事故の原因になるんだ。」

私は悪なのか。
正義と思っていたことが、とんでもない悪徳であったのかと、私の天地は逆さまになった。
「しかしお父様、法律でも、歩行者優先だと決まっているはずです。私は間違っているのでしょうか。」
「法律を守れば良いというものではない。それで危ない思いをすることだってあるんだ。」
「しかし、歩行者の気持ちを考えたことはありますか。歩行者にとって車とは、恐ろしいものなんだ。向こう岸の歩道が、宇宙のように遠く見えるんだ。それを、わかってない。車に乗ってるやつは、いい気になってるよ。自分が強くなった気でいる。歩行者なんて、虫けら同然だろうね。自分が痛くも痒くもないから、見て見ぬ振りで、ほんの数秒を惜しむ。寒かろう。あのお婆さんは、さぞ寒かったろう。朝のぼやけた時刻に、どこへ行くのか知らないが、大層な厚着も出来ず、ただ車の途切れるのを待っている。たった一台停まってやれば、お婆さんは救われる。我々のほんの何秒かを、譲ってやれば、それで済むというのに。それすら出来ないなんて。貧しいね。なんて貧しくなっちゃったんだ。何がどうとは云わないけれど、人間、こんなに貧しい存在に、成り下がっていいのかしら。私、はっきり言って、かなしいよ。」

父はあきれるような顔をした。

私は続けた。
「確かに、対向車は来ていた。狭い街道だ。私は何度もパッシングをしたのだが、停まる気配がなかった。この国は、人非人の集まりか。いつからこんなに落ちぶれた。」

見過ごすことも出来たけれど、私はやはり、それがミニスカートの女子高生でないからといって、見過ごせるような、鬼ではなかった。いやむしろ、鬼というべきか。世間がみんな、鬼ならば、それはもう、鬼なんかでない。それが人間で、私が鬼だと云うのだろう。

みんなが見過ごすそれを、見過ごさなければ生きられないと言うのなら、それは、世間の忌み嫌う、いじめとおんなじではないか。誰かが苦しむのを、踏み越えて生きなければならない。みんながそうしているから、痛みが薄れる、罪悪感が薄れる。そうして、薄まった薄まった焼酎のように、味気なく心あらずの、薬に似た依存性で以て、我々の良心を破壊する。私の正義は負けたのか。いいえ、そうではない。私は決して屈しない。世界で最後のひとりになろうとも、反抗することを、やめるつもりはない。

私は激しい嫌悪に髪を落とした。誰も認めてはくれないんだ。

今朝方のそんな苦い記憶を回想しながら、私は仕事場へ向かっていた。対向車が地獄のようにすれ違う。信じられるものはカーステレオから流れる尾崎豊の歌声だけでしかないと私は身を奮い立たせた。息が白い。ふと登校中の女子高生が目について、黒ストッキングの肉感が視線を盗んで、私は手元を狂わせた。気付けばもうあどけない顔した男児は絶叫を残して見えなくなっていた。

Posted by Mist